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Time's Arrow

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2015年の始まりに

大晦日に、紅白歌合戦を見てしまうのは、報道機関の中心であるNHKが、総力を挙げて作り上げる番組であることも一つの理由かもしれない。

2014年の紅白歌合戦は、紅組が吉高由里子、白組が嵐が司会を務めて進行した。素人の吉高由里子の司会ははらはらするものがあった一方で、好き嫌いはあるにせよ、視聴者を釘付けにする要素も十分にあったと思われる。(正にそこが、NHKが吉高由里子を選んだ最大の理由であろうが。)

今回の司会で、吉高由里子が背負ったメッセージは、国民的な女優へと成長した彼女が、不慣れなアナウンサーに挑戦するプロセスと、そこに生じる彼女の葛藤が表現されることであったであろうし、不味い司会の中にも、彼女なりの一生懸命さがあり、最後の安堵の「イェーイ」や「あーびっくりした」の彼女らしい言葉の中に、かかっていたプレッシャーの大きさが感じとられたのも私だけではないであろう。(昔であれば、こんなことはありえなかったと思うが、時代も代われば人も代わり、その伝へ方?も代わるということであろうと思っている。)以上のことから、当然の批判はあるにせよNHKの狙いは十分に達成できたのではないだろうか。

さて、今回の紅白を見て、私なりにいくつかの発見があった。一つは、アーティストにもレベルの違い、格の違いがあることだ。吉高が司会として、アーティストを盛り上げことは難しいし、またそれを彼女に求めるのも酷なことは、皆が承知している。(特に彼女の場合には、リアクションが素であるため、よほど感銘を受けない限り、オーバーなリアクションができない)。したがって、アーティスト自身の力がより顕在化しやすい状況だったと考えられる。

司会者の存在の有無にかかわらず、圧倒的な力を見せつけたのは、中島みゆき、長渕剛、サザンオールスターズ、美輪明宏、他何名かぐらいではなかっただろうか。その他は申し訳ないが、ほとんど記憶に残らなかった。というよりも、吉高由里子が背負うメッセージ性に及んでいないという印象だった。

NHKは、決して紅組の司会で盛り上げたい訳でもなく、歌うことの醍醐味で盛り上げたいはずである。それなのに、それができない。その最大の理由は、「歌(手)の力不足」ということであろう。

『伝える側』と『受け取る側』、その両者のバランスが崩れてきていることが、『歌』が力を失ってきた理由かもしれない。

『受ける側』の国民が、歌を渇望しなくなった。そのことは、感動を失ったということにも近いのかもしれない。その『受ける側』の変化に、『伝える側』がついていけず、居場所を失っているようにすら感じるのである。それでは、なぜこのような状況になってしまったのだろうか。

その一つの原因は、日本を覆う『空気』であるのかもしれない。画一した考え方が、少しずつ日本を全体主義へと押しやってきた。各人が描く夢や希望に対しての無力感が日本を覆い始めているような気がする。それは一見、豊かさに隠されているが、少しずつ日本をむしばんでいる。

今回印象に残った歌手の歌には、その硬直した空気に対する『メッセージ』があったのではないだろうか。

美輪明宏も言っている。
『どことなく、今の日本は第二次世界大戦の前の空気に似てきた』

 2015年、日本が一つの方向性に収斂しないように、圧倒的な新しさを提示し、そして発言していけるようにしなければと年初の誓いをたてるのであった。
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by faceless_masses | 2015-01-02 09:37 | 日常
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