その国にはその国が通った道がある。
そして、必ずといって良いほど、いくつかの忌まわしく血なまぐさい歴史が含まれているものである。
大航海時代の幕が開け、まだ世界が未熟であった頃、
人々には外国の“人”という概念はなかった。
外国から来た者達は、
見た目も違う。
言葉も違う。
だから人ではない。奴隷にしてもいいだろう。
そんな発想が当たり前のようにまかり通り、奴隷は鉄のくさびにつながれ、単純労働を強いられた。
ボルドーも例外ではなかった。良好な港街として栄えたこの街は奴隷貿易の中心でもあった。
多くの奴隷がすし詰め状態でアフリカ大陸から送られてきたそうだ。
しかし、しばらくするとそのような奴隷達も”人”であるという事実が浮上してきた。
今までは奴隷だと思っていた者達が、雇い主や使用人達との間で愛を育み、
その子供達が誕生するという事態が起こったのである。
人と奴隷の子は何なのか?
この問題に、矛盾が生じてきた。
人と奴隷の子がもし人ならば奴隷とは何か?
人と奴隷の子がもし奴隷ならば人とは何か?
この答えがどうにも定まらない。
だとすれば問いに問題があるということになろう。
つまりは、人と奴隷ではなく人と人なのだという事実を認めざるをえなくなった。
事実には打ち勝てない。結局、奴隷制度も様々な抵抗活動を経て廃止へとこぎつける。ただ、その名残もあって多くの黒人がフランスに住んでいる。
このような苦い歴史はあるけれども、奴隷貿易とワイン貿易でボルドーは18世紀大きな発展を遂げるのであった。
ボルドーの夜
おわり