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日本と韓国の未来

お盆のNHK番組で日本と韓国の未来を語るという番組が放送された。

その中で、崔洋一氏の言論封鎖発現が物議を醸し出している。
この件については、さまざまな批判がネット上を駆け巡っているので、
あまりここでそれに触れることは避けたいが、一つだけ私見を述べれば、

客観的に物事をとらえるという行為は、
仮の正しさを認識するということである。

我々がある客観的な事実に基づいて物事を考えるという手法をとる以上、
その客観的な事実の正しさ(正確にはその解釈の正しさ)を常に証明する必要がある。

数学であれば、その客観的な事実は演繹的にまたは帰納的に正しく証明が進められる。

物理は数学で基礎づけられた定理に基づいた論理と、実際の現象との整合性から客観的事実の認定が行われる。

さらに化学となると、その現象の理解は一層複雑になり、事実の認定が難しくなる。ここから化学屋はその過程における事実の認定そのものよりも最終的なものだけが事実として確かめられれば良いという発想が生まれる。

さて主に社会学や歴史認識などの極めて客観的事実が乏しく、さらにその社会や歴史を形成する多数の人が関与することが求められる場合には、その事実認定は極めて難しくなる。さらにこの場合の事実認定では、その歴史的に起こった出来事(事実)とは無関係に現代という要素すら介入する。このような複雑な境界条件から必要なものを取捨選択して、どのように客観的事実を認定するかということは困難な作業であることは容易に理解できるし、その解法は未だ見いだせていない。

このことから論理を構築するにあたって仮の正しさが必然的に登場するが、当然、仮の正しさ故にそれを強弁することはできない。これは事実認識の放棄ではなく、そのプロセスにおいて、それ抜きに議論できないということである。

NHKの崔洋一氏の発言はこの発想の欠落であり、次の京都大学准教授の指摘は正にそれであると理解した。

ところで、僕自身はこのようなやりとりにも興味はあったが、それよりも、日韓の有名人の認識の違いに驚いた。

日本における韓国人の知名度の第一位はペヨンジュであったのに対して、
韓国における日本人の知名度の第一位は伊藤博文であった。

日本のいかにも脳天気な回答と、韓国のくそまじめな回答が、見事なコントラストをなしているが、
僕はこの結果から、日本の先進性と韓国の努力を垣間見ることができたと思っている。

それは、日本の未来志向と韓国の猛烈な経済発展とカルチャーの熟成を感じるからだろう。

我々は決して歴史を軽んじてはいけない。
しかし、同時に我々は歴史の舞台にたっている。
今日は明日の歴史である。

もし、21世紀中頃に本当に日韓の友好が開ける時が来るとすれば、
その扉を開いたのは、ペヨンジュであったと歴史に刻まれるであろう。
伊藤博文はその片隅に亡霊のようにのしかかってくるかもしれないが、
決して再び表舞台に現れることはない。

時は刻々と過ぎていく。
歴史は重い。
しかし、現代、そして今日もまた歴史の舞台であり、この歴史が未来を決定していくことはほとんど確かなように僕には感じられる。
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by faceless_masses | 2010-08-18 17:19 | 社会
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